フランク・ロイドのブログ

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歴代天皇系図と継体天皇が「東」からやってきた理由

歴代天皇系図


歴代天皇系図に時代区分を加えました。自分の書き込み用のデータ資料です。個人的には、第15代応神天皇以降を実在とする説がリーズナブルじゃないかと思っています。


◯ 倭国大乱、後漢の桓帝/霊帝の治世(146 - 189)
◯ 卑弥呼の日食(1)、247 年 3 月 24 日
◯ 卑弥呼の日食(2)、248 年 9 月 5 日
◯ 魏志倭人伝(280 - 297)


アジア/日本の年代と仏教

歴代天皇系図

天照大神(アマテラスオオミカミ)
日本神話に登場する神(人格神)で、太陽を神格化した神。皇室の皇祖神の一柱。別名、大日霊貴神 (オオヒルメノムチノカミ)邪馬台国の卑弥呼だったという説もある。


天忍穂耳命(アメノオシホミミ)
日本神話に登場する神。古事記では、スサノオがアマテラスの勾玉(まがたま)を譲り受けて生まれた五皇子の長男で、アマテラスの子となっている。高木神(タカミムスビ)の娘である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)との間に天火明命(アメノホアカリ)と瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)をもうけた。


瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
日本神話に登場する神。天照大神(アマテラスオオミカミ)の命により、葦原中国(あしはらのなかつくに)を統治するため高天原(たかまがはら)から地上に降りた。天孫降臨。大山祇神(オオヤマツミ)の娘の木花之開耶姫(コノハナノサクヤビメ)を娶り、子に火照(ホデリ)海幸彦・火須勢理(ホスセリ)・火遠理(オホリ)山幸彦がいる。山幸彦の孫が神武天皇。


火遠理命(オホリノミコト)
日本神話に登場する神。一般には山幸彦(ヤマサチヒコ)。 神武天皇の祖父。海神の娘の豊玉毘売命(トヨタマビメ)を妻とし、子に鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)がいる。


神武天皇(ジンム)、弥生時代
庚午年1月1日~神武天皇76年3月11日(BC711年~BC585年)。


◯ 欠史八代
綏靖天皇(スイゼイ)、弥生時代、欠史八代
神武天皇29年~綏靖天皇33年5月10日(BC632年~BC549年)


安寧天皇(アンネイ)、弥生時代、欠史八代
綏靖天皇5年~安寧天皇38年12月6日(BC577年~BC510年)


懿徳天皇(イトク)、弥生時代、欠史八代
綏靖天皇29年~懿徳天皇34年9月8日(BC553年~BC477年)


孝昭天皇(コウショウ)、弥生時代、欠史八代
懿徳天皇5年~孝昭天皇83年8月5日(BC506年~BC393年)


孝安天皇(コウアン)、弥生時代、欠史八代
孝昭天皇49年~孝安天皇102年1月9日(BC427年~BC291年)


孝霊天皇(コウレイ)、弥生時代、欠史八代
孝安天皇51年~孝霊天皇76年2月8日(BC342年~BC215年)


孝元天皇(コウゲン)、弥生時代、欠史八代
孝霊天皇18年~孝元天皇57年9月2日(BC273年~BC158年)


開化天皇(カイカ)、弥生時代、欠史八代
孝元天皇7年~開化天皇60年4月9日(BC208年~BC98年)


◯ 第10代崇神天皇以降を実在とする説
崇神天皇(スジン)、弥生時代、漢代 (BC202 - AD220)
開化天皇10年~崇神天皇68年12月5日(BC148年~BC29年)10代天皇。在位は崇神天皇元年1月13日~同68年12月5日(BC97年~BC29年)


垂仁天皇(スイニン)、弥生時代、漢代 (BC202 - AD220)
崇神天皇29年1月1日~垂仁天皇99年7月14日(BC69年~70年)11代の天皇。在位は垂仁天皇元年1月2日~垂仁天皇99年7月14日(BC29年~70年)


景行天皇(ケイコウ)、弥生時代、漢代 (BC202 - AD220)
垂仁天皇17年~景行天皇60年11月7日(BC13年~130年)12代天皇。在位は景行天皇元年7月11日~同60年11月7日(71年~130年)


◯ 倭国大乱、後漢の桓帝/霊帝の治世(146 - 189)
成務天皇(セイム)、弥生時代、漢代 (BC202 - AD220)
景行天皇14年~成務天皇60年6月11日(84年~190年)13代天皇。在位は成務天皇元年1月5日~同60年6月11日(131年~190年)


仲哀天皇(チュウアイ)、弥生時代、漢代 (BC202 - AD220)
生年不詳~仲哀天皇9年2月6日(~200年)14代天皇。在位は仲哀天皇元年1月11日~同9年2月6日(192年~200年)


◯ 卑弥呼の日食(1)、247 年 3 月 24 日
◯ 卑弥呼の日食(2)、248 年 9 月 5 日
◯ 魏志倭人伝(280 - 297)


◯ 第15代応神天皇以降を実在とする説
応神天皇(オウジン)、古墳時代、魏呉蜀代 (220 - 266)
仲哀天皇9年12月14日~応神天皇41年2月15日(201年~310年)15代天皇。在位は応神天皇元年1月1日~同41年2月15日(270年~310年)


仁徳天皇(ニントク))、古墳時代、晋代 (222 - 420)
神功皇后摂政57年~仁徳天皇87年1月16日(257年~399年)16代天皇。在位は仁徳天皇元年1月3日~同87年1月16日(313年~399年)


履中天皇(リチュウ)、古墳時代、晋代 (222 - 420)
仁徳天皇24年~履中天皇6年3月15日(336年~405年)17代天皇。在位は履中天皇元年2月1日~同6年3月15日(400年~405年)


反正天皇(ハンゼイ)、古墳時代、晋代 (222 - 420)
仁徳天皇24年~反正天皇5年1月23日(336年~410年)18代天皇。在位は反正天皇元年1月2日~同5年1月23日(406年~410年)


允恭天皇(インギョウ)、古墳時代、晋代 (222 - 420)、五胡十六国時代 (420 - 439)
仁徳天皇64年~允恭天皇42年1月14日(376年~453年)19代天皇。在位は允恭天皇元年12月~同42年1月14日(412年~453年)


安康天皇(アンコウ)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
履中天皇2年~安康天皇3年8月9日(401年~456年)20代天皇。在位は允恭天皇42年12月14日~安康天皇3年8月9日(454年~456年)


雄略天皇(ユウリャク)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
允恭天皇7年12月~雄略天皇23年8月7日(418年~479年)21代天皇。在位は安康天皇3年11月13日~雄略天皇23年8月7日(456年~479年)


清寧天皇(セイネイ)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
允恭天皇33年~清寧天皇5年1月16日(444年~484年)22代天皇。在位は清寧天皇元年1月15日~同5年1月16日(480年~484年)


顕宗天皇(ケンゾウ)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
顯宗天皇、允恭天皇39年~顕宗天皇3年4月25日(450年~487年)23代天皇。在位は顕宗天皇元年1月1日~同3年4月25日(485年~487年)


仁賢天皇(ニンケン)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
允恭天皇38年~仁賢天皇11年8月8日(449年~498年)24代天皇。在位は仁賢天皇元年1月5日~同11年8月8日(488年~498年)


武烈天皇(ブレツ)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
仁賢天皇2年~武烈天皇8年12月8日(489年~507年)25代天皇。在位は仁賢天皇11年12月~武烈天皇8年12月8日(498年~507年)


◯ 第26代継体天皇以降を実在とする説
継体天皇(ケイタイ)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
允恭天皇39年~継体天皇25年2月7日(450年~531年)26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日~同25年2月7日(507年~531年)


安閑天皇(アンカン)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
雄略天皇10年~安閑天皇4年12月17日(466年~536年)27代天皇。在位は継体天皇25年2月7日~安閑天皇4年12月17日(531年~535年)


宣化天皇(センカ)、古墳時代、南北朝時代 (439 - 589)
雄略天皇11年~宣化天皇4年2月10日(467年~539年)28代天皇。在位は宣化天皇元年12月18日~宣化天皇4年2月10日(536年~539年)


欽明天皇(キンメイ)、飛鳥時代、南北朝時代 (439 - 589)
継体天皇3年~欽明天皇32年4月15日(509年~571年)29代天皇。在位は宣化天皇4年12月5日~欽明天皇32年4月15日(539年~571年)


敏達天皇(ビダツ)、飛鳥時代、南北朝時代 (439 - 589)
宣化天皇3年~敏達天皇14年8月15日(538年~585年)30代天皇。在位は敏達天皇元年4月3日~同14年8月15日(572年~585年)


用明天皇(ヨウメイ)、飛鳥時代、南北朝時代 (439 - 589)
出生年不詳~用明天皇2年4月9日(~587年)31代天皇。在位は敏達天皇14年9月5日~用明天皇2年4月9日(585年~587年)


崇峻天皇(スシュン)、飛鳥時代、隋代 (581 - 619)
出生年不詳~崇峻天皇5年11月3日(~592年)32代天皇。在位は用明天皇2年8月2日~崇峻天皇5年11月3日(587年~592年)


推古天皇(スイコ)、飛鳥時代、隋代 (581 - 619)
欽明天皇15年~推古天皇36年3月7日(554年~628年)33代の天皇。在位は崇峻天皇5年12月8日~推古天皇36年3月7日(593年~628年)日本初の女帝。古事記では推古天皇までを記している。 摂政に聖徳太子を置いた。


舒明天皇(ジョメイ)、飛鳥時代、唐代 (618 - 907)
推古天皇元年~舒明天皇13年10月9日(593年~641年)34代天皇。在位は舒明天皇元年1月4日~舒明天皇13年10月9日(629年~641年)



継体天皇が「東」からやってきた理由


これは盲点だった。第26代継体天皇が越の国から断絶した天皇家に血縁が薄いにも関わらず『婿入り』した、という事実を見落としていた。これに関しては、何か類推できる説が考えられるかもしれない。


福井県の特殊な地理特性も知らなかった。


継体天皇が「東」からやってきた理由

『日本書紀』によれば、初代神武天皇は西の九州からやってきた。『日本書紀』には明らかに東軽視の態度が見られる。


しかし、多くの歴史学者が今上天皇の直系と考えるのは26代継体天皇だ。なぜ継体天皇は東(越の国)から即位することができたのか? 6世紀初頭の古代日本国家は何を目論んでいたのか?


"東の王"継体天皇登場の謎


初代神武天皇は、九州からやってきたと『日本書紀』はいう。だから、天皇家の故地といえば、九州と思われがちだ。しかし、第26代継体天皇は、6世紀初頭に東からやってきている


しかも、通説は、継体天皇を新王朝の祖と考えていた。また継体天皇の血統は今上天皇まで続いているのだから、「天皇家は越(北陸)=東からやってきた」ことになる。


ところが、『日本書紀』を編纂した8世紀の朝廷が、「天皇家の故地である東を嫌っていく」から、不可解きわまりないのだ。ここに、天皇と日本史の大きな謎が隠されている。


そこでまず、なぜ継体天皇は東からやってきたのか、その事情を明らかにしておこう。『日本書紀』には、詳細な説明が記されている。継体天皇はヤマトの地理を考える上でも重要な意味を持ってくるので、詳しく紹介しておく。


継体天皇(男大迹王、おおどおう)は第15代応神天皇の五世の孫だ(皇族としての血はきわめて薄かったことになる)。父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)で母は垂仁天皇7世の孫・振媛(ふるひめ)である。


継体は近江国高島郡の三尾(滋賀県高島市)の別業(別邸)で生まれた。父が容姿端麗な振媛を三国坂中井(福井県坂井市)から近江に呼び寄せ、迎え入れて妃にしたのだった。


ところが早くに彦主人王は亡くなったので、振媛は幼い男大迹王(継体)を連れて、故郷の高向(坂井市丸岡町)に帰った。こうして男大迹王は、越で育てられるのである。


ちなみに、彦主人王の住んでいた三尾という土地は、交通の要衝だった。日本海側の若狭から、若狭街道の低い峠を越えてくれば三尾に出る。敦賀とも陸路でつながっている。日本海と関わりを持つのに、ちょうど良い場所だったのだ。


嫁取りは「美人だったから」と『日本書紀』はいうが、実際には彦主人王が日本海に関心を持ち、政治的につながっていこうと考えたのだろう。


5世紀後半から6世紀初頭にかけて、越の一帯はヤマトにはないような先進の文物が集まる場所に変貌していたのだ。日本海の流通が活発化していたわけで、ヤマトが越の王を連れてきたのも、日本海の発展と大いに関わりがある。


もっとも、男大迹王がヤマトに求められた理由を『日本書紀』は次のように説明する。すなわち、第25代武烈天皇は酒池肉林をくり広げ悪政を布いたこと、しかも子がなかったから、後継者が途絶えたのだという。だから継体元年(507)に、樟葉宮(大阪府枚方市楠葉)で男大迹王は即位したのだ。


5世紀後半は、中央集権国家への歩みが始まり、だからこそ、主導権争いや反動勢力の跋扈もあり、王家は混乱し、王統は途切れてしまったわけだ。そこで男大迹王に白羽の矢が立てられたというわけである。


継体が育った福井は東日本の文化圏


三王朝交替説を唱え一世を風靡した古代史学者の水野祐は、継体天皇を新王朝の祖とみなし、多くの史学者が賛同していた。しかしその後、様々な考えが提出され、「越の王がヤマトを征服したのではなく、入り婿だったのではないか」とする説が、有力視されるようになってきた


福井で育てられたという話も、何やら暗示的だ。福井平野は、東と南側が山で遮られている。これも地理の盲点で、福井県といえば目の前が海というイメージが強いが、福井平野の西側も山で塞がれていて、海から見ると、「崖の連続」なのだ。


しかも、近畿地方に通じる陸路(木ノ芽峠)は、意外な難所で、木ノ芽峠の直下に位置する敦賀市から福井平野につながる北陸本線の北陸トンネルは、長さ1万3,870メートルもある。昭和37年(1982)に開通した当時、日本最長を誇っていた。


トンネルが開通する前の北陸本線は、名実ともに難所で、スイッチバック4か所、勾配25パーセントで、時間をロスしていたのだ。一帯は豪雪地帯でもあり、鉄道が通る前は、この山塊が、大きな壁になっていた。隣接しているのに、近江や近畿地方とは異なる文化圏に属していたのだ。


民俗学者の大林太良は、現代日本の日本海の民俗を、おおよそ次のように括っている(大林太良『東と西 海と山』小学館)。


(1)青森県から新潟、富山県境(東北と共通する文化圏)

(2)富山県から福井県中部(東日本的色彩が濃い)

(3)福井県西部から鳥取、島根両県境(共通の信仰の分布地域)

(4)島根、山口両県(東北から西南に向かった文化圏の西限)

(5)北九州(本州島の日本海側の文化圏とは異なる)


(3)の福井県西部とは敦賀市から西側をさしている。福井平野は西の地域に接しているのに、峠が壁となって、東寄りの文化圏だったことが分かる。


ヤマト政権から見れば、大軍を送り込んでも、峠ではね返されるという、厄介な存在でもあったのだ。


福井の発展と三国の重要性


福井平野を俯瞰すれば、「子宮」のような形をしていて、近畿圏とは隔絶されていることが分かる。そして、男大迹王が育った三国は、敦賀から船を出して、最初にたどり着く港である。


三国といってもぴんとこないかもしれないが、刑事ドラマによく登場する東尋坊のある場所、といえば、分かりやすいだろう。


福井と西をつなぐ陸路は不便だから、海上交通を利用しただろう。その場合、三国から出た船は、敦賀(角鹿)に向かったはずだ。敦賀湾は天然の良港で、奥羽・北陸地方と畿内を結ぶ水運の要だった。


七里半越、塩津街道のふたつの陸路を経由して琵琶湖北岸の海津、大浦、塩津に通じていた。ここからさらに船を出し、琵琶湖最南端の大津につながっていたのだ。三国も、敦賀との関係を見なければ、その地理的な意味は、理解できない。


つまり、福井平野は陸路では不便だったが、海の道はしっかり確保されていた。福井発展の要素は、海からもたらされたのだ。ところで、福井の古代史はほとんど知られていないのが実情である。ただ、一時期、越を代表する地域だったことは間違いない。


石川県や富山県では銅鐸がまったく出ていないが、福井県では9個出ている北陸地方の前方後円墳の半分は、福井県に集まっていて、九頭竜川流域の丸岡・松岡周辺に密集地帯がある。


4世紀後半から6世紀半ばに続く、越の王の眠る古墳群だ。しかも、これだけ長く同一の系譜が想定される古墳群は珍しいのだという。


なぜこの時代、福井は発展したのだろう。理由はいくつも推理されている。九頭竜川流域で米の生産量がこの時期飛躍的に高まっていたことや、若狭から敦賀にかけての塩業が当たったのではないかとも考えられている。


敦賀や三国の潟(天然の良港)を利用した交易、鉄の増加、馬との関わりなども指摘されている。男大迹王の「おおど=をほど」は、「ホト(火処)」をさし、鍛冶の炉の意味ではないかと推理し、男大迹王を鍛冶王とみなす考えもある。


いずれにせよ、日本海沿岸屈指の天然の良港・三国なくして、福井は語れないのだ。そしてだからこそ、男大迹王の母は、三国と大いに関わっていたのだろう。


近畿地方との交流は、陸路が不便だった分、余計に三国が重要な意味を持っていた。そして、福井平野の諸勢力は、近畿地方と文物のやりとりをしながら、独自の文化を育んでいったのだ。