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ヰタ・セクスアリス - 雅子 16(エピローグ)、二度と相まみえることはない、運命は交差しないと言ったじゃない!美沙子の嘘つき!

ヰタ・セクスアリス - 雅子 16(エピローグ)

●絵美と洋子1、1983年1月15日(土)

 ぼくと絵美は銀座をぶらついていた。並木通りのレストランで食事をしたり、ウインドーショッピングをしたりした。なぜか、彼女はぼくと一緒の時に下着を買いたがる。それもきわどい下着を買うのだ。そのくせ、ぼくらはセックス一歩前までいきながら、出会って3年近くも経つのにセックスをしなかった。別に彼女が拒んでいるわけではない。ぼくもそれほど求めているわけじゃない。なぜなのか、二人共わからない。なんとなく、未来のある日に、プレゼントが渡されるみたいなことが起こるんだろう。


 就職して、アルバイトは止めてしまったが、時々ぼくは新橋の第一ホテルに行って酒を飲んだ。バーテンダーの吉田さんはまだ働いている。アマネさんはある時から何もホテルに言わずに来なくなったんだそうだ。フーテンでもしているのかもしれない。


 当時の新橋の第一ホテルは今はない。1989年に老朽化していた新橋第一ホテル本館は閉鎖、1992年には新橋第一ホテル新館も閉鎖された。今あるのは、閉鎖された跡地に建てられ再開業した第一ホテル東京だ。ホテル運営会社自体は、2000年に経営破綻して、阪急阪神ホテルズが運営するホテルチェーンのブランド名で残っている。


 夕方になって日もくれた。ぼくらは、銀座8丁目から右に曲がって、新橋第一ホテルに向かった。泊まるわけじゃない。最上階のバーで酒を飲むつもりだった。


 エレベーターに乗り込んだ。ぼくらだけだ。絵美は腕をぼくの腕にからませた。


 扉がほとんど閉まりそうになった時、だれかがボタンを押したんだろう。扉がまた開き始めた。「ゴメンナサイ」という声がして、女性が乗り込んできた。そこに黒のトレンチコートのポケットに手を突っ込んで立っている洋子がいた。


 ぼくと洋子が同時に「アッ」と声をあげた。絵美が怪訝な表情でぼくと洋子の顔を見比べた。「明彦、お知り合い?」と絵美がぼくの顔を見て尋ねる。ちょっと考え込んでいる。絵美と洋子はお互いの顔を見ている。


「明彦、ご紹介してくださらない?」と絵美がニコッとして言う。ぼくは二人を見比べた。背の高さも同じ、小顔も同じ。二人共、もし他人がすれ違えば見返るように目立つ。「ああ、え~、こちらは島津洋子さん。こちらは森絵美さん」と言うが、どうにも気まずい。でも、二人共ニコッと笑って「初めまして」と言う。


「宮部くん」と洋子が気を利かしてぼくを名字で呼んだ。「お久しぶりね。森さん、素敵な方ね」
「あ~、どうも」とぼく。何を言えば良いんだ?
「ところで、何階に行くの?まだ階のボタン、押してないわよ」と洋子が振り返ってエレベーターの操作盤を指差す。
「ああ、最上階です」
「バーね?」
「ハイ」
「私もバーに行くところだったのよ。でも、お邪魔かしら?どうしましょう」とニヤニヤして洋子が言う。


 絵美が「明彦、どうせなら、島津さんもご一緒してお酒を飲みましょうよ」とニコニコして絵美が言う。「あら、森さん、ご一緒してよろしいの?」「私はご一緒したいですわ」「じゃあ、そうさせていただこうかしら」ぼくにとっては空気が重い。


 ぼくは我慢しかねて「絵美、洋子、ニコニコ、ニヤニヤして、これは勘弁して欲しい。いつもの調子で行こうよ。どうせ、絵美には洋子の話をしてあるし、洋子にも絵美の話はしてあるんだから」


「なんだ、つまんないわね。このエレベーターの中が水銀で満たされているようなままでバーまで上がったら面白かったのに」と洋子。
「私も洋子さんと呼ぼう。たしかに、明彦の顔を見ているだけで面白かったわ。洋子さん、明彦からあなたの話は聞いています」
「絵美さん、私も明彦からあなたの話は聞いているわよ。最初は加藤恵美さんかと思ったけど、これは絵美さんじゃないかと思ったの」
「あら?メグミさんの話まで?まあ、そうよね。私に出会うよりも先に洋子さんに明彦は出会ったんだから。時間軸の順番というわけではありませんけど。そう、年上の女性みたいだったので、洋子さんだと見当をつけました」


 エレベーターが最上階に着いた。フロアに出ると洋子もぼくのもう片方の腕にしがみついた。両手に花ってことかな。やれやれ。


 左手に曲がって、数段の階段を降りる。右手にバーカウンターがあって、バーテンダーの吉田さんがいた。こりゃあ、カウンターってわけにはいかないなあ。


 吉田さんが「お!明彦、久しぶりだな。あれ、島津さんと森さんもご一緒?お二人共お久しぶりです。カウンターですか?」と聞かれる。


 吉田さんは絵美と洋子をよくお客として見知っていたし、ぼくは彼女らを吉田さんに紹介したのだ。もちろん、別々に。だから、二人がぼくの両手にしがみついているので、これはなにか修羅場か?とでも思ったのかもしれない。「吉田さん、お元気そうで。テーブル席をお願いします」と答えた。


 吉田さんが頭をフリフリして、一番奥の4人がけのテーブル席に誘導してくれた。一番奥。他のお客様の迷惑にならない席。


 どう座るかな、と思っていると、二人は並んで腰掛けた。ぼくは二人の正面席へ。弁護士と心理学専攻の学生の正面。被告席なんだろうか。


 吉田さんが「何になさいます?」と聞く。絵美も洋子も「明彦、いつもの」と声を揃えて言う。


「え~、牛のたたきを2つ、チーズの盛り合わせも2つ・・・洋子、食事は?」「軽く何か」「じゃあ、ピザ、マルガリータのラージを1つ。お酒は・・・絵美はマーテルのXO?ロック?じゃあ、ブランディーをダブル、ロックで。洋子はピンクジン?タンカレーベースでダブル、グラスで。ぼくは・・・グレンフィディックを・・・トリプル、ロックでお願いします」ふぅ~、やれやれ。


 洋子が「二人共、ここにお泊り?」と聞く。絵美が「いいえ、銀座をぶらついて、それでお酒を飲もうという話で。洋子さんは?」「私は新潟からの出張で、ホテルは帝国ホテルに泊まってるの」「あら?帝国からこっちにわざわざ?」 


「ここは馴染み深い場所だから、ね?明彦?」とぼくを見てニタっとした。


「絵美さん、明彦の顔を見ていると面白いわね?」
「私、楽しんでます」
「そりゃあ、そうよ。正面に本命の彼女と年上のガールフレンドが座ってるんじゃねえ。どういう顔をしていいやら、迷ってるわよ」


 酒と料理が来た。「二人とも、乾杯しよう」とぼくが言うと、「何に乾杯?誰に乾杯?」と絵美が意地悪く言う。「そりゃあ、ボーイフレンドが本命の彼女を連れてエレベーターに乗っているところに、偶然乗り込んだ年上のガールフレンドとの再会に乾杯でしょ?」と洋子。「絵美、洋子、うるさい!ぼくたちに乾杯!」


 洋子は、グビッとジンを飲んでしまう。絵美はいつもはチビチビと舐める飲み方だが、洋子につられてグビグビ飲みだした。やれやれ。酔うと絡んでくるんだろうなあ。頭の悪い女の子なら、その絡み方も楽しめるが、この二人だと、どんな搦め手で絡むかわからない。


「面倒だから、『さん』付けは止める!絵美は、ブランディー派なんだね?」と洋子。
「洋子さん・・・洋子はスピリッツ派なの?」
「そうでもないのよ。まんべんなくどの種類でも飲むわよ。新潟だから、日本酒も飲む。でも、最初にこのホテルに来た時に明彦が作ってくれたのがピンクジンだったから、ここではピンクジン」
「あら?その話、聞いてない」
「1978年のこと。5年前?クリスマス・イブ。やっぱり出張で東京に出てきて、帝国ホテルが満室だったから、ここに部屋を取ったの。それで、夜の11時ぐらいにここに来て、カウンターに座ったらバーテンダーでこの男がいたってわけ」とぼくを指差す。「それで頼んだのがピンクジン」


「1978年?私が初めて明彦に会ったのが、1979年の2月のことだったから、2ヶ月前の話ね」
「初めて出会った時は明治大学の講堂でしょ?絵美は、Keith Jarrett の Köln Concert を弾いていたって聞いたわ。私はピンクジンで、あなたはピアノ?格調が違うわね。不公平よ」いや、初めて出会うシチュエーションに格調も公平性もないものだ。やれやれ。
「あの時は、明大を出た後、山の上ホテルのバーでお酒を飲んだの」


「ふ~ん。私はピンクジンを飲んだ後、部屋にクリュッグを頼んで、寝ちゃったわ」と素知らぬ顔で洋子。チクッとした。
「ねえ、洋子、ピンクジンって美味しいの?」
「飲んで見る?」と洋子が絵美にグラスを差し出す。絵美が受け取ってグビッと飲む。「あら?美味しいじゃない。これは・・・」
「キンキンに冷やしたジンにアンゴスチュラビタースを3滴垂らして、カットレモンをグラスの上でキュッと絞って作るのよ。ねえ、明彦」
「ご名答」とぼく。ぼくに会話を振るんじゃない。
「ビターが効いていて、ストレートのジンよりもまよらかな味ね。私にとってはほろ苦いけど。でも、美味しいわ」と絵美。また、チクッとした。


 二人とも10分と経たない内にグラスを空けてしまう。ぼくはお代わりを頼もうとした。「二人とも、同じものか?」と聞く。「私はピンクジン、飲んじゃおう。トリプルでね。頼むの面倒でしょ?」と絵美。「じゃあ、私は、マーテルのXOのロック、同じくトリプルでね」と洋子。二人で飲むものを交換したってことか。また、チクッとした。


「ねえ、絵美の専攻は心理学って聞いたけど」
「ハイ、犯罪心理学の博士課程に在籍してます」
「日本で犯罪心理学の需要があるのかなあ」
「洋子、それが教授も言ってるんですが、あまりないんですよ。犯罪件数自体も欧米に比べて少ない。猟奇的殺人事件も起こりません。どうしようか、考え中です。プロファイラーなんて面白いのですけど」


「プロファイラー?ああ、プロファイリング、分析捜査のことか。犯罪者の特徴や性格、職業や年齢、住んでいる場所とかを行動科学的に犯人像を推論する分野だね」
「あら、よくご存知で。ああ、そうか、洋子は企業と犯罪分野の弁護士ですものね」
「明彦から聞いたのね。そう、ちょっと大学院の時に調べたことがあったの」
「洋子の大学って・・・」
「パリ大学、ソルボンヌ。卒論がね『ナポレオン法典』だったわ」
「え~、興味深い」
「フランス民法典が正式名称なの。なんでそんなの選んじゃったんだか。で、大学院の時、パリで複数殺人の猟奇事件があって、それを調べていたら、アメリカではFBIが犯罪捜査で捜査を効率化することを目的としてプロファイリングが始められた、なんて出てきたので、興味を持ってちょっと調べたの」
「洋子、もっと教えて。私の進路、どうしたら良いんだろう?日本に居ても大学に残るか、警察庁にでも就職するか、どっちにしても、件数が少ないからケーススタディーができないわけだし・・・」


「そうよねえ、日本に居てもねえ・・・」おいおい、洋子、絵美を海外に行かせちゃうつもりか?「行くとするとニューヨークかな?ニューヨーク大学(NYU)じゃない。ニューヨーク市立大学(CUNT)に行けばいい。大学の格で言えばニューヨーク大学だけどね。ニューヨーク市立大学の上級カレッジには、ジョン・ジェイ刑事司法大学があるのよ。法科大学だけど、法学部だけじゃなくて心理学部もある。ジョン・ジェイで学んで、FBIの訓練生に潜り込むというのもありかもね」
第4ユニバース、第4話 絵美の殺害4参照


「なるほど。洋子、連絡先を教えていただけないかしら?いろいろご相談したいわ」
「いいわよ」と言って洋子がハンドバックから名刺を取り出した。名刺に家の電話番号を付け足して絵美に渡した。絵美もメモ紙に連絡先を書いて洋子に渡す。インターネットなどない時代なのだ。連絡先も固定電話なんだ。


 ぼくが変な顔をしていたんだろう。洋子がぼくを見て「明彦、彼女を海外に送り出そうとしてるな?この女は!という顔をしてるわよ。絵美が聞いてきたんですからね」


「どうコメントして良いのか・・・」とぼくが言うと、
「ヘヘヘェ、意地悪しちゃおうかな?絵美はね、アメリカ行きに興味を持っているけど、私がいるでしょ?ねえ、絵美、そうでしょ?」と絵美に聞くと絵美がコクンと頷いた。「でもね、私も日本にいなくなっちゃうとしたら?どう?」と言う。絵美がええ?という顔をした。


「実はね、パリ大学時代の教授が、モンペリエの法学の助教授の空きがあるから来ないか?って言われたの。アジア人で初めての教授職で、『ナポレオン法典』を教授して欲しいってね。それで、ウンと言っちゃったの。だから、4月頃からフランスに行こうと思っている。ね?絵美?どう?私が日本にいなくなれば、あなただって、ニューヨークに行くのを躊躇しないでしょ?・・・あ~あ、私って意地悪よねえ」
「それ、私だって、どうコメントして良いのか・・・」と絵美。


「まあ、よく考えなさい。私が渡仏する前に、いろいろと教えてあげるわ。アメリカにも知り合いがいるから聞いてあげる。フフフ、私だってさ、モンペリエに行っちゃうから、絵美だってアメリカに行っちゃえば・・・ああ、意地悪ねえ、私」


「ああ、思い出した。4年前の夏、明彦と付き合いだして半年くらい経った頃、『今日の京の酒蔵と和紙所』展示会が神田で開催されていて、そこで、明彦の大学時代の恋人に偶然であったの。雅子さんという人。実家の事情で、大学を辞めて、明彦と別れて、京都の酒蔵に嫁いだの。あの時も明彦は変な顔していたわ。それはそうよね。自分と別れて、京都に戻ってしまった女性と偶然、私と一緒の時に再会するんですもの」


「雅子さん?その人もその話も、知らないなあ。ねえ、聞きたいんだけど。どういうことだったの?」と洋子。
「あれは、1979年8月のことだった・・・」と絵美が話し出す。

●1979年8月、その年の夏、酒造りのオフシーズンでもあり、「今日の京の酒蔵と和紙所」展示会とカンファレンスの開催にこぎつけた。

 その年の夏、酒造りのオフシーズンでもあり、「今日の京の酒蔵と和紙所」展示会とカンファレンスの開催にこぎつけた。関東の旧来のお付き合いのバイヤーさん、新規のバイヤーさんなどの取引先に招待状を出した。また、一般の方にも酒造り、和紙づくりを知ってもらおうと新聞広告も出した。義父は義母の面倒もあり参加できず、私の亭主とパパ、兄は二日遅れで参加する。展示会を回すのは、私と義妹と女将さんたち。女の時代よ。


 私は、婚家の酒蔵のブースと実家の和紙のブースを行ったり来たりして、社員の応対を補佐していた。酒蔵のブースでは、酒枡をピラミッドにしたりして、見た目にもかなり凝ったつもりだ。展示品は、一升瓶の汎用製品の日本酒の他に、低温殺菌の純米酒を当時は珍しかった500ml、720mlのグラスに詰めたものも展示していた。これは冷酒で飲んで欲しい。試作品の純米大吟醸酒も展示した。


 むろん、展示だけではなく、試飲もしていただく。初見さんのお客様もいれば、関東地方のバイヤーさんなどもいて、顔見知りのお客様だと、試飲が試飲でなくなってしまって、ぐい呑で何杯もお代わりをされる方もいた。私もマズイなあとは思いつつ、お客様と盃を交わしてしまい、少々酔ってしまった。


 昼過ぎになり、昼食時間でお客様も多少まばらになった。私は、酒蔵のブースを義妹にまかせ、和紙は私が見るということで、他のスタッフを昼食に送り出した。


 和紙のサイズは、半紙判という333x242ミリから、画仙紙全紙だと1366x670ミリまである。今回は、さまざまな原色を組み合わせて、画仙紙全紙を十二単のような扇状に展示していた。元美術部だから、補色とかいろいろ考えてしまう。お客様にご覧になっている内に扇形が崩れてしまったので、私はそれを整えようとしていた。画仙紙全紙は大きいので、綺麗に扇状にするには手間がかかった。展示テーブルに俯いて、和紙をなんとか元通りに直していた。


 急に照明が遮られて影が和紙に射した。あら、お客様かしら?と思った。私の上から声が降ってくる。「あの、作業中に申し訳ありませんが、和紙の製法についてお聞きしたいんですが・・・」とその声は言う。聞き覚えのある声だった。私は上体を起こした。


 立ち上がって背を正して、お客様と向き合った。「いらっしゃいませ。どのような製法について・・・」と言いかけて、私は言葉を飲み込んでしまった。三年ぶりの懐かしい人の姿が正面に立っていたのだから。


 彼も驚いていた。偶然にしても出来すぎじゃない?ただ、彼の隣には彼女らしい背の高いスラリとした女性の姿もあった。私も彼も見つめ合ったまま、言葉が出ない。


 何秒か、だったのだろう。でも、それが無限に続くかと思われた。彼の隣の女性が怪訝な顔で私たちを見ているのがわかった。私の顔をジッと見て、彼の顔を見比べている。「あら、お知り合いだったかしら?」と彼女が言う。


 彼女はブースの上の実家の店名を見ていた。「小森・・・」と首を傾げて、思い出そうとしていた。「・・・あなたは、もしかすると・・・雅子さん?」と彼女が言う。なぜ、この見も知らない女性が私の名前を知っているんだろうか?


 急に彼に言語能力が戻ってきたみたいだ。私の言語能力は退化したままだった。彼が「雅子・・・」と私に呼びかける。その時、ブースに実家の社員が戻ってきて、「若女将、昼食終わりましたので、どうぞ、代わりに行って下さい」と私に言う。


「え?昼食ね。今、このお客様が・・・」と社員の女の子に言いかけると、彼が「そうですか。これから、昼食ですか。私もご一緒しても構いませんか?ねえ、絵美、あの昼食を・・・」と彼が彼女を振り返っていいかけた。


 絵美と呼ばれた彼女は、「私、ちょっとまだ見ていくから、小森さんさえ構わなければ、二人で先に行かれたらどうかしら?外に出て左に行くと明神様の御門の正面に明神そば屋さんがあるわよ?あそこではどうでしょう?」とテキパキと私と彼の顔を見ていった。


 彼が「・・・うん、じゃあ、絵美、そうさせてもらうかな。小森さん・・・ああ、小森さんは旧姓でしたね。齋藤さんかな?齋藤さん、どうでしょう?その明神様のおそば屋さんに行ってみませんか?」と私に言う。私はまだ言葉が出ない。頷いてお辞儀をしてしまった。それで、彼に誘導されるようにして、ブースを離れて、おそば屋さんに向かった。足元がフワフワして、和服の裾がうまく裁けない。よろけてしまう。彼が肘を支えてくれた。


 そば屋さんに行く間も言葉が出ず、彼も何も言わなかった。そば屋さんの奥の板の間のテーブルに着いた。しばらく、テーブルを見つめていて、顔を上げると彼が私を見つめていた。「雅子、三年ぶりだね。不意打ちだ。こんな所で会うなんて」と優しく言う。昔よりも声が低く太くなったかしら?


「あ、明彦・・・」懐かしい、面映い、そして、二度と会うとは思わなかった。言葉が続かない。「結局、雅子とぼくが行くプラド美術館の夏は訪れなかったね」と彼が言う。こら!明彦!私が泣くようなことを言うな!泣いちゃうじゃないか!バカモノ!


 美沙子さんの言葉がたくさん思い出された。


「二人の運命のめぐり合わせは交差しなかったのよ。二人共が最終ゴールじゃなくて、通過点だったということ」


「明彦にとって、雅子は、通過儀礼だったのよ。人間が成長していく過程で、次の段階に移行する期間で、どうしても通らねばいけない儀式だった。大人になるための儀式。それが、雅子にとっては明彦だった。明彦にとっては雅子が儀式だったのよ。ある意味、私も二人の儀式なのかな?」


「雅子と明彦は未来でも二度と交差しないと決まっている」


●美沙子の嘘つき!『未来でも二度と交差しないと決まっている』って何よ!目の前に今その交差している本物がいるじゃない!馬鹿野郎!
 美沙子の嘘つき!『未来でも二度と交差しないと決まっている』って何よ!目の前に今その交差している本物がいるじゃない!馬鹿野郎!


 私は、着物の袂からハンカチを取り出し、目尻に当てる。彼が言葉を続けた。「美沙子も電話をしてきた。彼女がキミの最近の話をしてくれた。彼女も言っていた。雅子も同じだわって。ぼくのことを聞きたがっているって。美沙子は伝書鳩みたいだね」お願い!それ以上言わないで!涙が止まらなくなるわよ!


 私が涙を堪えていると、彼女がやってきた。チェアを引いて音もなく座った。彼女が身を乗り出してテーブル越しにハンカチを握りしめている私の手をそっと包み込んだ。「雅子さん、私はあなたのことをよく知っているんです。明彦から聞いています。美沙子さんともお電話でお話ししたことがあります。私ね、あなたに嫉妬しちゃったの。たった、数ヶ月のお付き合いで、この明彦があなたについてたくさん話せることがあるんだと。私だったら、そんなに話せることはないんじゃないかしら?って、妬けちゃった」


 私は顔を上げて彼女を見た。さらさらした長い髪、体つきはしなやかで背が高く、スラリとしたウェストと小ぶりな胸。日本人にしては高い鼻。テーブル越しでも強靭な意志と聡明さを感じた。おいおい、明彦、私、彼女に負けてる。


「美沙子さんが言っていた・・・御茶ノ水の明大の小講堂で明彦が出会った女性がいるって。あなたが、森、絵美さん?」
「はい、森絵美です。小森・・・齋藤さんか。齋藤雅子さん、どうぞよろしく」
「絵美さん、会えて良かった。でも、複雑な気持ちなのよ」
「わかるわ。元カノと今カノという単純な話じゃないものね?困っちゃうなあ。それはおいておいて、少し遅れてやってきましたけど、二人共、二十分くらい、お通夜してたのね?三年前のお通夜を。それで、オーダーもまだしていないんでしょう?明彦、食事のオーダーくらいしなさいよ。それとも胸が一杯で食事も喉を通らないの?」
「わ、わかったよ、絵美。雅子、何を食べる?」とテーブルの上にあったメニューを開いて私に渡した。


 先にメニューを開いていた絵美さんが「う~ん、おそば屋さんは、おそばにするか、ご飯物にするか、いつも迷うのよねえ。うなぎもある。天丼とお蕎麦というベタなチョイスもある。鴨南蛮にカツ丼、どれにしましょう?天丼と鴨つけそばかしらね?そうしましょう。雅子さんは何にする?」と聞かれた。


「え?私は・・・」そうだ。会場の準備で、朝食もとっていなかったのだ。急にお腹が空いたのに気づく。絵美さんも二品注文したことだし、私だって二品でもおかしくないわね?って、どうも京都の癖で、何かと他の人を気にする癖が付いてしまったようだ。「私は、カツ丼と鴨つけそばにします」と答えた。グゥ~っとお腹がなった。明彦もウナ丼と鴨つけそばを注文した。「ついでに、ビールもいいだろう?二人共?」とビールの大瓶を三本注文してしまった。まあ、ビールくらい良いかな?


 料理が来た。話の糸口がつかめない。絵美さんのことを聞いてみようか?


「絵美さん、さっき私の実家の和紙ブースの上にあるウチの店名を見られて、『小森』から私の名前を思い出されたようですけど、明彦から私のことを聞いていたんですか?」
「ウフフ、雅子さん、気になる?気にならないほうがおかしいわよね?」と頬杖をついて絵美さんは私の顔をジッと見た。「前に付き合っていた人の話が話題に出て、明彦は『あまり趣味が良くない話題』と言っていて渋々だったけれど、私が根掘り葉掘り聞いたのよ。彼の話しを聞いていて、明彦がお付き合いした女性の中で、あなたが特に印象に残ったの。あ!美沙子さんもね」


「明彦!」と私は彼を睨みつけた。
「雅子、ぼくとキミの間もそうだったけど、ぼくと絵美の間も隠し事なしだ。もちろん、彼女に聞かれたから話した。プライバシーに関わることだけど、キミには二度と会えないとも思っていたからね。美沙子は気にしなかったよ。面白がっていたよ」
「明彦!」


 展示会の開催されている明神様の会館の道すがら、絵美さんが私の腕を握って歩いた。あ、この人とはお友達になれそうと思った。会館のエントランスに入って、絵美さんが立ち止まる。


「雅子さん、あそこの柱の後ろ、見える?あそこなら、誰にも見られないと思わない?」と絵美さんが言う。
「え?」何の話?
「ほぉら、明彦とあそこに行って、隠れて、彼にハグしてもらっちゃわない?もう、こういう機会はないかも。三年前、東京駅で別れてから、二人共モヤモヤしてるんでしょう?私、気にしないから。最後に、二人で封印しなさいな」などととんでもないことを言い出す。


「絵美、なんてことを・・・」「絵美さん、私は亭主持ちで・・・」と明彦と私が言いかける。


「あらら、一生、後悔するわよ。私が良いっていうんだから、雅子さんの旦那さんの了解はないけど、すればいいじゃない?雅子さん、明彦、しなさいよ。私、あなた方が誰にも見られないように、見張っていてあげるから・・・」と私と明彦の肩を突いて、柱の陰に押し込んでしまった。絵美さんは、エントランスの中央に行ってしまって、ブラブラしている。


「・・・」
「強引なんだよな、絵美は。あのさ、雅子、どうする?」
「どうするって・・・いまさら、私に、そんなこと聞くの?」こいつの鈍感さはたまに頭に来ることがあった。今もそうだ。何も聞かずにキスすれば良いんだ。私が最後のキスを欲しがっているのがわからないのだろうか?


 彼が私の腰に、私が彼の首に腕を回した・・・これで、本当におしまいなんだな・・・私は彼に抱かれて、キスをしながら思った。


 もう、交差しないのだ、私たちは。

●絵美と洋子2、1983年1月15日(土)

「そっかあ、そんなことがあったんだ。雅子さん、可哀想だなあ。でも、絵美も寛大よねえ」と洋子。
「洋子、雅子さんとのことも明彦は全部話してくれて、ああ、もしも、雅子さんが京都に帰っていなければ、明彦と私は出会わなかったんだなあと思って。『最後に、二人で封印』の儀式くらいさせてあげないと。私が無理に二人を押したんだけど」
「確かに、私が絵美の立場でもそうしたかな」
「そうでしょう?」
「確かに、明彦は困った男だからなあ。ねえ、絵美、『二人で封印』ならさ、いっそのこと、明彦をフランスに連れて行くのはダメ?ねえ、明彦、私とフランスに来ない?養ってあげるから、家事をして。私、家事、出来ないから」
「それは絶対にダメです!洋子、ダメです!だったら、ニューヨークに行きません!」と絵美。
「あら?じゃあ、私が明彦をフランスに連れて行かなかったら、あなたは、ニューヨークに行くってことなの?」
「え?・・・あれ?」
「ふ~ん、これもまた運命よね。偶然、私と会っちゃたんだから。ね?明彦?」
「・・・」


 その夜、絵美と洋子は、ぼくをそっちのけで、法学の話や犯罪心理学の話をして盛り上がった。やれやれ。

●2021年2月16日(火)

 庭のオクラが今日も12個でかくなった。オクラは1日で急に成長するので、毎日収穫しないとすぐ固くなって食べられなくなるのだ。携帯が鳴った。電話番号は「+81・・・」日本からか?


「もしもし、宮部ですけど」
「明彦?美沙子よ、美沙子!」
「美沙子、お久しぶりですね?お元気ですか?」
「元気も元気。知ってる?ねえねえ、私、曽祖母になっちゃったんだよ!」
「え~、ええっと、美沙子は15才上だから、77才?そうかぁ、ひいばあさんになったんだ・・・」
「もう、あれから何年経つのかしら?1977年?44年よ!44年!」
「44年・・・半世紀ですね」
「もう、私もそろそろ次の段階に進んだほうがいいかもね?」
「何を言ってますか?日本女性の平均年齢は確か82才くらいでしょう?」
「もう、十分生きたわよ。雅子だって彼岸で待っているでしょ?」
「あいつは・・・」
「明彦と最後に会ったのが、京都の彼女のお葬式だったわね」
「美沙子さん、70代に見えませんでしたよ」
「あら?また半世紀前みたいに抱いてくれる?」
「何を仰る。もう、現役引退してますから」
「そっか。いくら平均寿命が長くなって、昔みたいに現役時代が十年、二十年長くなっても、さすがに、70代と60代じゃあ、セックスは無理よね?」
「・・・ひいばあさんになった人の発言とは思えないですよ」
「・・・良かったわね、あの頃・・・もう一度、あの頃に戻ってみたいわ」
「不思議な関係ですね、私たちは」
「まだ、私とあなたは交差してるなんてね。私なんかと交差しないで、雅子とねえ・・・」
「すべては運命なんでしょね」
「あ~あ、気持ちはまだ30代なんだけどなあ・・・」
「・・・面白かったですよ、あの頃・・・」
「最初にキミとセックスしたのをまだ覚えているわ、私・・・」


 数日して、美沙子からSNSが送られてきた。


「あなたねえ、70代のおばあちゃんだからって、すげなく断るもんじゃないわよ!嘘でもいいから、美沙子、今でもキミを抱きたいんだよ、ぼくは、なんて言えばいいじゃないの?


 あら、昔、キミが好きだった詩を思い出したわ。詳しく覚えていなくって、ネットで検索したけど、キミにあげましょう。思い出した?

●オデュッセウス、アルフレッド・L・テニスン

 友よ 来たれ
 新しき世界を求むるに時いまだ遅からず
 船を突き出し 整然と座して とどろく波を叩け


 わが目的はひとつ 落日のかなた
 西方の星ことごとく沐浴(ゆあみ)するところまで
 命あるかぎり漕ぎゆくなり


 知らず 深淵われらをのむやも
 知らず われら幸福の島をきわめ
 かつて知る偉大なるアキレウスを見るやも


 失いしは多くあれど 残りしも多くあり
 われら すでに太古の日 天地(あめつち)をうごかせし
 あの力にはあらねど われら 今 あるがままのわれらなり


 時と運命に弱りたる英雄の心
 いちに合っして温和なれど 
 努め 求め たずね くじけぬ意志こそ強固なれ。


 かしこ、美沙子より」


 ぼくは・・・思い出した・・・


ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編1

ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編2

ヰタ・セクスアリス(Ⅰ)雅子 総集編3

挿入話『第7話 絵美と洋子、1983年1月15日/1983年2月12日』

シリーズ『奴隷商人』 

奴隷商人とその時代

奴隷商人とその時代 (続き)

奴隷商人 Ⅰ

奴隷商人 Ⅱ

奴隷商人 Ⅲ

奴隷商人 Ⅳ

奴隷商人 Ⅴ

奴隷商人 Ⅵ

奴隷商人 Ⅶ

奴隷商人 Ⅷ

奴隷商人 Ⅸ